京大他複数の大学で「外部知恵袋」を利用したカンニング?があったようですね。事実はよくわかりませんが、これだけの騒ぎになっているのですから「何か」が起きた事は間違いありません。ちなみに「入試問題漏洩」で検索するとこんな感じ「入試問題漏洩 – Google 検索 http://bit.ly/gMskwm

「誰がどの様にこれを実行したのか?」というポイントで盛り上がっているようです。しかし「なぜこの事件が起きたのか」を考察するほうが良いと思います。で、ココからは独断と偏見ですw

今回の事件は、今日の電脳環境からすれば、まぁ起きても不思議ではありません。さらに起きてる出来事が情報として遅滞なくネット上を駆け巡る状況です。将来はもっと高性能で便利なデバイスが出来上がることでしょう。とすれば試験問題そのものを見直す。さらに言えば教育制度そのものを見直す必要があるのではないでしょうか?

常に一つの正解がある事が約束されている設問

これは、入試に限らず、およそ学校で行われている「試験」はすべて「正解」があります(多分)  実務的に「採点」を考慮すれば、しかたないのかも知れません。しかし、「常に正解が存在する」設問設定は「効率的に点数を評価する」事ができるだけで「効果的に人物を評価する」訳ではありません。このことは取りも直さず、「若い人の評価」が効率的に行えるように設計された教育システムだからです。

基礎的な知識を要求する事は絶対に必要です。しかし「知識」だけでは役に立たないことは「社会人」なら誰もが知っているはずです。特に様々な情報がネット上に溢れかえっているのですから「若年齢の人」でも、そこらに居るボケッとしてる大人より、よっぽど豊富な知識があるでしょう。もちろん学問的な知識だけではなく、常識や社会の出来事に関しての知識も豊富だと思います。だとすれば、知識以外の観点で「評価」する教育を考えたほうが好ましいでしょう。

今や知識を手に入れる方法が大きく変化している

実際、今回の事件は「外部知恵袋」によって正解がもたらされたとすれば、先に書きましたようにように、今後はますます「電脳化」されるでしょう。今後の社会においては「如何にして必要な知識を、タイムリーに手に入れる事か?」ということです。

実際は過去も同じでした。〇〇の専門家に尋ねれば答えが返ってきていたのです。ただし、今日は、専門家が人ではなく、人の知識が集積されている(であろう)ネット上に変化しただけです。同時に高性能なデバイスを使っているだけです。

余談ですが、私が学生の頃は「カンペ」です、デバイスは「紙」です。さらに「良い目、良い席、良い友」という初期設定が実に重要でした(爆)

来るべき社会はどの様な人を求めているのだろうか?

社会人として巣立つ若い人達に「期待」があります。企業は人が作ります。社会は人が作ります。文化も人が作ります。では私達はどのよな人を好ましいとしているのでしょうか?過去の工業化社会なら「均一な品質を要求していた」のかも知れません。そのため「人にも標準化」を施したわけです。生産性向上の観点から3Sが要求された時代です(3S:単純化(simplification)、標準化(standardization)、専門化(specialization))このことは、過去には有用に機能していました。しかし、変化の激しい時代に旧態然とした手法にしがみつくのは愚かなことです。さっさと捨てて新しい試みをすべきではないでしょうか?今後は先の3Sに更にいくつかの要素が付加される必要があると思われます。とりあえず①-③の三つを上げておきます。

①独自性:「その人らしさ」を発揮する能力

間違ってもゆとり教育ではありません。独自性を開花させるために「真剣に自分らしさとは」を問い続けなければなりません。今の大人では、そもそも無理があるのかも知れません。なぜなら殆どの人は「均一化されて没個性な時代を生きてきたので、自分らしさなど、問いかける必要もなく、また暇すらなかった」からです。中高年になって「自分探し」をしてる人がなんと多いことか、自分探しは「若いうちに完了」してなければならなったのかも知れません。

②協調性:「社会と調和」できる能力

自分らしさがあるからといって傍若無人では社会が混乱します。自らの活動が調和の取れる社会形成に貢献できる人が必要でしょう。協調性は集団活動によって育まれると考えられます。他人と共感できる能力や、誰かを助けたり、逆に誰かに助けられたりできる能力は尊いものです。基本的には人間愛に基づく能力だと思います。

③超越性:「自分の能力を俯瞰」できる能力

超越性という表現が適切かどうかわかりません。「メタ化する能力」といっても良いかも知れません。社会では様々な能力発揮が要求されます。芸術の分野であれ、学問の分野であれ、あらゆる分野で「人と関わりながら生きるています」

自分の能力を俯瞰できる事は即ち、他人の能力も俯瞰できる能力だと思われます。このことが「独自性を発揮しながら協調性を維持できる必須能力」だと考えます。もし、これがなければ自分を過信したり、卑下したり、同時に他人をむやみに尊敬したり、蔑んだりしてしまう危険性があります。個々人の才能や能力は独自性があり一人ひとりに違いがあります。「すべての人が価値あるユニークな存在として認める事ができる」社会が理想的であると考えます。

このような愚察から導かれる試験制度は

上記のような観点で教育制度を変化させると、試験制度も自ずと変化できます(というより帰納的にそうしてるのですが)。具体的には、正解がない設問をして適当な人数で考察する様なシーンがイメージできます。昨年流行ったマイケル・サンデルではありませんが、現実の社会であろりそうな「状況設定」をして正義、道徳、あるいは人間の尊厳といった大人でも悩むようなテーマを課題とし、ディスカッションするのも良いでしょう。いずれにせよ「正解はありません」 ただし、ディスカッションに参加する態度を一定の基準で評価する事は可能です。学校であれば「どんな生徒が欲しいのか」を予め決めておけばよいのです。知識が豊富な人?リーダーシップを発揮する人?調整役を買って出る人?手先の器用な人?運動能力に優れた人?・・・・それぞれの個性が調和しながらディスカッションや演習をしてる場面においては容易に見つかると思います。これは先に記載した「効果的な人の評価」方法(試験)になるだろうと思います。

最後に「社会には正解がない」

実社会では正解はめったにありません。なぜなら人の人生に正解がないからです。社会はこのような人の集団です。正解はないにしても「最適解」はあります。来るべき将来にとって「最適とはなにか?」本気で考察し「そのように行動」しなければならないでしょう。諸々の制度や規制、あるいは常識といった「古い価値観」で構成されている「全て」を見直す必要があります。社会全体が、即ち「全員」が大いなる挑戦をする必要がありそうですね!

さぁ、一歩踏み出そうではありませんか!!

ではでは、

Enjoy your life!!

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