久々に頭がトロになるぐらいに考えこんでしまった。まぁ、お休みのエントリーということでw
キッカケは特に何かあったわけではなく、twitterでのつぶやきから自問自答が始まったのです。
人はどこまで優しく成れるのだろう?その前に優しさとは何だろう?相手が感じ取ってはじめて現れる感覚だからとても難しい気がする。
「やさしさ」を考えて約一週間!四六時中とは言わないまでも「考えていた」事は間違いありません。で、「わかる」って実はとても難しい事だと「わかった」ような気がします。プロセスは端折りますが、テーマ的にはこんな感じ
相手が 「わかっている/わかっていない」 と 「自分がわかる」、これが最初、
そして、
相手に 「自分が、わかっている/わかっていない」 と 「相手に、わかってほしい」
「わかる」には2通りあるかも?
- 相手の 「わかり方」で 「相手のわかっている/わかっていない」 を 「自分がわかる」
- 自分の 「わかり方」で 「相手のわかっている/わかっていない」 を 「自分がわかる」
ここで、「相手のわかり方」ははたして「わかる」のだろうか?と疑問がつくのです。もしかして、「相手のわかり方」は決してわからないのではないかと?
とすると、1.は「わかったつもり」になるだけです。結果的に2.の「自分のわかり方」を採用するしかないのです。
では「自分のわかり方」ってどうやって「わかるのか?」となるのです。この問いはたち悪いです(笑)哲学的にならざるを得ないのです。アバウトに言うと案外「自分のわかり方」も「わかっていない」様な気になってくるのです。そもそも「自分のわかり方」を「わかろうとしているのは誰?」みたいな感覚ねw。無限ループから抜けだせないで、脳のお遊び、トートロジーな雰囲気バリバリの考察になるので一週間はまったのです。
でも「お互いにわかりあえる」って感覚は誰にでもあるでしょう?一体「何を」わかりあえたのか?一体「誰が」わかりあえたのか?言葉を超えた「相互了解」という状態。少々スピリチュアルな雰囲気が出てくる領域。それでいても「わかりあえる領域がある」のです。
人はどこまで優しく成れるのだろう?
それなりに長生きしてきてやっとこの程度かよ!と言われそうですが、現時点での私の結論は、
「自分は相手のことを何もわかっていない」を「わかっている(自覚している)」なら、人は「どこまでも優しく成れる」
相手を「わかろう」と思う気持ち、「相手を知ろう」と思う構えこそが「優しさの本質」ではなかろうかと…
更に昇華すれば「愛」と表現されるのか?
とりとめのないエントリーでした(^^ゞ オッサンの戯言として。
ではでは、
Enjoy your life!!