考える自由

On 2011年11月25日, in 3.人生・問いかけ, by hirotamaki

昨日はぎっくり腰で自宅療養(^^ゞ、時間がたっぷりあったのでほとんど横になって考えていました。私の思考空間には誰も立ち入ることはできません。純粋に一つの事だけを考え続けるのは困難ではありますが、ものすごく自由な領域 である事は確かです。

昨日のテーマは「生まれる」「生きる」「死ぬ」「私」と哲学的ではありますが、これ以外の事はすべて、この根本が解決されていなければ(自明となっていなければ)、なんら意味や価値を付与されることはありません。

日常的にはこの部分を曖昧にしておくことは可能です。いや、明確にならざるテーマとして、神秘的に取り扱う事、あるいは宗教的に取り扱うことも可能でしょう。扱い方は「形式」であり、上記の他にも様々な「形式」があります。

昨日考えていた(と思われる)私はどこにいるのでしょうか?もう今の私とは明らかに違います。腰の痛みも治まり、思考も仕事のモードに切り替わっています。

さて、冒頭に書いた「私の思考空間」はどこにあるのでしょう?脳でしょうか?そんなことはあり得ないです(多分)。脳を医学的(科学的?)に取り出したとしても「ここ」ですよ!と提示されるとはとても思えない。では一体「このWATASHI感」はどこから発生するのでしょう?

こんなことをうつらうつらと考えながら、 唯一受け止めた事は

ギックリ腰で一日中横になっていたが、考える自由が与えられている事実は素晴らしい事だと痛感した!おやすみなさい。
@hirotamaki
玉置弘一

というあまりにも当たり前な事だけでした。

なぜ、私は経営コンサルタントという仕事をしてるのか?という仕事に関する直面。

なぜ、私はゴルフが好きなのか?という趣味に関する直面。

なぜ、私は。。。無限の直面とそれに「なんとなく適合してそうな理由」はいくらでも見つけることができます。

しかし、

なぜ、私は私なのか?

という直面には「適合する理由が見当たらない」のです。

「汝己を知れ!」と古代ギリシャまでぶっ飛んでいかなければなりません(^^ゞ

そして、自分自身が「未だ尚、何もわかっていないオッサンであること」はわかりました。

多少の経験をしているので、たとえば経営に関する知識や手法は知っています。ゴルフも何となくラウンドできます。人として何となく世間に埋もれる程度に生きてもいけます。しかし、やはり、根本のところは何も知らないのだと自覚できました。

そもそも、言葉で語れるテーマとは思っていないのに、どうして「こんな事」を考えたのか?少々不思議ではあります。そして、「考える自由」はとても素晴らしい事だと再確認できた一日でした。

ちなみに、皆様は「あなた誰?」と尋ねられたら、どんな風にお答えになりますか?

ではでは、

Enjoy your life !!

 

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