自由からは逃れられない?

何を馬鹿なことを言っているのだ?と思うかもしれませんが、魚が水から逃れられないのと同様に人間は自由から逃れられないのではないかと…。もちろん水は物質であり自由は観念ですから同様に論じることには無理があります。

自由を感じるのは不自由に出会ったときです。自由の反対語は統制とか束縛とか文脈において適宜使われるのだろうと思いますが、とりあえず大雑把に「不自由」としておきます。何か制限される感じが不自由なわけです。

とすると、制限を外せば自由になるのですが、どうやら、私たちは自由を感じる(自由を求める)ために「あえて制限を課している」のではないかと思うわけです。このことはすなわち、私たちは最初から完全に自由そのものを意味します。しかしそれは不自由を感じたときに同時に感覚できるだけで普段はとらえることができない心象と言えるでしょう。例えていうなら、呼吸は苦しくなる時(水中にもぐるとか)「呼吸できないという不自由」の状態に遭遇して初めて「自由に呼吸できる」ことのありがたさを感じるはずです。

自由を感じるために、あえて不自由を設定しているという感じが何となく掴めて頂けたと思います。

なぜ不自由を設定してまで自由を感じ取りたいのか?それは多分「欲」でありましょう。極論すれば無欲の状態であるならば、自由そのもので居られるのではないでしょうか?今この瞬間を生きているだけで十分に満たされている(無欲の)状態ならばこれ以上の自由はないはずです。まぁこの境地に達するにはなかなか困難なのは経験的にも承知しています(笑)嗚呼もどかしい…。そもそも自由なのに!

最後に自由は悟り?言い換えれば「絶対的安心」の境涯の状態時にのみ味わえるのかな?その時自由を味わう「私そのものが無くなっている(無我)」のですけど(笑)

ではでは、Enjoy your life !!

この記事は関連するかも?

{lang: 'ja'}
 

コメントをどうぞ