われより哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ。 カント
謹賀新年、今年もよろしくお願いします。いきなり本題に入ります(w)
しばしば、リーダーシップ論や、教育の現場で「魚釣り」の例え話が出てきます。部下、あるいは弟子など「教えられる立場」に対して、教える立場の人は、「魚」を与えるのではなく「魚の釣り方」を教えなさい、そうすれば一匹の魚を与えるより価値があると・・・
「教え方」についてはその他にも色々な書籍があります。また「教え方を教えてる方」もいます。
学び手の代表的な質問は「どうすればいいのですか?」で、教える方は「こうすればいいのです」と答えます。上記の魚釣りも「魚の釣り方」を即座に教える。魚を与えるよりはマシかも知れませんが、即答で釣り方を教えても役には立たないでしょう。
カント風に言えば、
われより釣り方を学ぶべきにあらず、釣りすることを学べ。
もしかしたらこの「教え方」こそが大切な「方法」として必要なのではないでしょうか?私たちは知らぬうちに「安易に答え」をもらったり、与えたりします。もちろん、即答が必要な時や即答する必要のあるテーマもあるでしょう。しかし、私は「重要だと思われるテーマ」こそ自ら学び会得する必要があると考えています。
ところであなたは「学び方」を教えてもらった事はありますか?もしかしたら少ないかも知れません。先輩から仕事の仕方を「盗め」とか出来る人の「真似」をしろとか(「学ぶは真似ぶ」)、「習うは慣れう」だとか・・・「コツ」だとか「技術」などフィジカルなテーマならOKでしょう。しかし「メンタル」「知的作業」等の「内面」における「技術」はいかがでしょう。
「あなたの内面」で起きる事柄に対して「誰か」が教えたり、対応処理することはできません。あなたの内面はあなた自身でしか「作用」させられないのです。そもそもあなたの「学びたい気持ち(学欲)」がなければ「作用の起動」すらしないのです。だからあなた自身が「学びたい」と思わなければ何も学びません、そして、「学ぶ」ことは「答えを得る」とは違います。あえて言えば「学んだを知る」と言えるかも知れません。もともと知ってる事は学びがありません。学ぶ事は「未知」を「既知」にすることです。「事後に学んだと自分自身が確認できる行為全体」を学ぶというのです。予見できる事ではありません。だから「どのような事象からでも学べる」のです。この「学び方」を手にいれれば他に学ぶ必要がありません。「いつでもどこでも何からでも学べます」
だから「こんにゃく問答」が含蓄のある「落語」になるのでしょう・・・
新年のエントリーにしては説教臭いかな?(爆)
はじめまして。kurumiと申します。
関係ないコメントどうかお許しください。
このサイトご存知ですか?
http://kanekure.ssig33.com/
働かずに金を得ようとする、あさましい人の集まるサイトです。
普通の会社員の私には「ふざけるな!」としか思えませんが、
お金を持っている方はどう感じるのかと思いまして。
なにかコメントをいただけましたら幸いです。
kurumiさん、コメントありがとうございました。少々長文になりましたのでメールにて返信させていただきました。ご確認下さい。
[…] 少しですが、こちらも関係するかも知れません・・・ […]
[…] 古いエントリーですが「学び方」でも触れています。まず自分が「学びたい(学欲)」と純粋な動機が必須になります。コレさえあれば、いついかなる時も何からでも、もちろん誰から […]